「形の病」と「気の病」――東洋医学と西洋医学は、何を得意としているのか

「形の病」と「気の病」――東洋医学と西洋医学は、何を得意としているのか

│執筆:馬場 乾竹

「西洋医学は形の病が得意で、東洋医学は気の病が得意である。」

私は以前から、臨床を考えるとき、この見方にかなり納得するところがありました。

ただし、最初にお断りしておきたいことがあります。

これは医学的に確立された病気の分類ではありません。

私が東洋医学と西洋医学の違いを考えるために置いている、一つの見取り図です。

たとえば骨折、結石、腫瘍、明らかな器質的損傷などは、「形」の問題として理解しやすいでしょう。

骨が折れているなら、その形を確認して必要な処置を行う。

結石が詰まっているなら、その位置や大きさを確認して対応する。

局所にとどまり切除可能な腫瘍であれば、手術が重要な治療になる場合があります。

こうした「対象として捉えやすい異常」に対して、現代の西洋医学は非常に大きな力を持っています。

一方で、臨床では別のタイプの問題にも出会います。

眠れない。
食欲がない。
身体が重い。
冷える。
動悸がする。
検査では大きな異常がないのに、本人は明らかにつらい。
病変そのものは落ち着いているのに、身体が以前の状態へ戻らない。

こうしたものは、「形」というよりも、身体の働きや調節、全体の状態として捉えた方が理解しやすい場合があります。

少なくとも私は、そこを東洋医学の「気」という考え方と重ねながら見ています。

では、この「形の病」と「気の病」という分け方は、どこまで通用するのでしょうか。

考えていくと、単純に二つへ分けるだけでは説明できない病気がいくつも出てきます。

そこで今回は、この分け方を一度疑いながら、それでもなお「形」と「気」という考え方にどこまで意味があるのかを考えてみたいと思います。

「形」とは何か、「気」とは何か

まず、「形」と「気」を単純に、

形=見えるもの
気=見えないもの

と分けると、すぐに話が崩れます。

現代医学では、肉眼では見えないものもかなり精密に観察・測定しています。

ホルモン、サイトカイン、神経活動、電気信号、遺伝子発現、免疫反応。

これらは肉眼では見えませんが、現代医学にとって重要な観察対象です。

ですから、

形=見えるもの
気=見えないもの

ではありません。

この記事では、「形」を、

異常そのものを、比較的固定された対象として切り出しやすいもの

と考えてみます。

たとえば、

骨折線
腫瘍
結石
関節破壊
瘢痕
臓器欠損

などです。

一方、「気」は、

構成要素そのものよりも、働き、相互関係、調節、時間的変化として現れる状態

として考えます。

循環、免疫、自律神経、代謝、睡眠、食欲、寒熱、精神状態、身体各部の相互関係などを考えるとき、私は「気」という概念が役に立つと感じています。

ただし、

気=免疫

ではありません。

免疫反応を、気という大きな見方の一側面として考えることができる、という程度です。

ここでいう「気」は一つの物質の名前ではなく、

生きている身体に起きている働き・関係・変化を捉えるための概念

と考えた方が、私の意図には近いと思います。

西洋医学も「気」に近い領域を見ている

ここまで考えると、重要なことに気づきます。

西洋医学も、決して「形だけ」を見ているわけではありません。

現代医学は、生命現象の「動き」も非常に細かく研究しています。

免疫細胞がどう働くのか。

どのサイトカインが増えているのか。

ホルモンがどう変動しているのか。

神経がどのように信号を伝えるのか。

どの遺伝子が発現しているのか。

代謝がどのように変化しているのか。

これらはすべて、固定された「形」だけの話ではありません。

そう考えると、

「西洋医学は形の医学、東洋医学は気の医学」

と完全に分けることはできません。

あえて大づかみに表現するなら、私は、

西洋医学は、生命の働きを細かく分解して見る。
東洋医学は、生命の働きを全体の関係として見る。

という違いを感じています。

西洋医学では、身体を臓器、組織、細胞、分子へと分け、その中で何が起きているのかを精密に調べ、治療標的を見つけていきます。

非常に強力な方法です。

一方、私が行っている東洋医学の臨床では、

症状
脈
腹
寒熱
睡眠
食欲
便通
呼吸
動き
精神状態
刺激を加えた後の変化

などを見ながら、

「今、この人全体がどのような状態にあるのか」

を考えます。

どちらも同じ人間を見ています。

ただ、

同じ生命現象を、異なる粒度や座標から見ている。

そう考えると、私には分かりやすく感じられます。

アトピーは「形の病」なのか

この「形と気」という考え方で最初に引っかかったのが、アトピー性皮膚炎でした。

アトピーには皮疹があります。

赤み、湿疹、苔癬化、掻破痕。

明らかに「形」があります。

では、アトピーは形の病なのでしょうか。

しかし、実際にはそれほど単純ではありません。

アトピー性皮膚炎は、増悪と寛解を繰り返し得る慢性の疾患です。

免疫反応、皮膚バリア、痒みと掻破、睡眠、ストレス、発汗、温度や湿度など、さまざまな要素が状態に関わります。

その結果が、皮膚という場所に「形」として現れている。

私はここに、

「働きや関係の変化が、形として現れる」

という構造を見ることができます。

もちろん、これはアトピーを東洋医学だけで説明できるという意味ではありません。

また、東洋医学なら再燃を防げるという意味でもありません。

ここで考えたいのは、

形が見えているからといって、形だけを見れば病態のすべてが分かるわけではない

ということです。

癌では「形への医学」の強さがよく分かる

一方で、癌は西洋医学が「対象を特定して直接介入する力」を非常に分かりやすく示す領域の一つだと思います。

たとえば、一部の固形癌で、

病変が局所にとどまっている。
切除可能である。

という状況なら、手術によって腫瘍そのものを取り除くことが重要な治療になります。

小さな病変を画像などで捉え、必要に応じて病理で確認し、手術などによって治療する。

これは、東洋医学には代替できない現代医学の大きな力です。

もちろん、癌は種類も病期もさまざまで、すべてを「早く見つけて切ればよい」と一括りにはできません。

それでも、

異常な対象を特定し、そこへ直接介入する

という西洋医学の強さが、非常によく分かる領域だと思います。

進行した癌では、身体全体の問題も大きくなる

一方、癌が進行すると、局所の病変だけではなく、身体全体の状態が大きな問題になることがあります。

癌そのものによる消耗。

転移。

疼痛。

栄養状態。

炎症。

倦怠感。

睡眠。

食欲。

活動性。

さらに抗癌治療によっても、倦怠感、食欲低下、吐き気、血球減少、感染リスクなど、さまざまな影響が出ることがあります。

ここからは、私自身の臨床経験です。

私がこれまで診た末期癌の患者さんの中には、抗癌治療を行う前には比較的身体全体が落ち着いていたにもかかわらず、治療開始後に全身状態が大きく崩れていった方が何人もいました。

ただし、これはあくまで私が診た範囲での経験です。

抗癌治療そのものが悪い、あるいは抗癌治療を受ければ必ず身体が崩れる、と一般化できるものではありません。

癌の種類、病状、使用する治療、患者さんの全身状態によって事情は大きく異なります。

治療によって癌そのものが抑えられ、その結果として症状や全身状態が改善する方もいます。

その前提を置いたうえで、東洋医学の側から身体を見ていると、私には一つ印象的な現象があります。

癌を抱えていても、その人なりの均衡を保っていることがあります。

完全に健康という意味ではありません。

それでも、

食べられる。
眠れる。
動ける。
会話できる。
身体全体としては、ある程度まとまっている。

私はこれを、

病を抱えながら成立している、その人なりの中和域

として見ることがあります。

そこへ癌そのものの進行や治療による身体への負荷が重なる。

そのとき、

崩れる速度が、戻る速度を上回る

ようになると、東洋医学的に身体を整えようとしても追いつけないことがあります。

少し食欲が戻る。

少し眠れる。

身体の反応が少しまとまる。

しかし、また大きく崩れる。

そういう状況です。

ここには、東洋医学の限界もあります。

全体を見るからといって、全体を必ず立て直せるわけではありません。

身体側に応答する余力が少なければ、こちらが適切に見ていたとしても追いつけないことがあります。

「気の段階」で介入する意味はあるのか

ここから、

「では、形として固定してしまう前に身体へ介入すればよいのではないか」

という問いが出てきます。

これは、東洋医学の「未病治」という考え方ともつながります。

身体にまだ可逆性があり、状態が大きく固定していない段階で介入することには意味があるのではないか。

私はそう考えています。

ただし、ここは私の臨床上の仮説として扱う必要があります。

東洋医学や鍼灸を行えば、癌や重大な病気の発症を防げる。

あるいは、器質的な病気へ進むことを防げる。

そこまで一般化することはできません。

また、早い段階で介入するという考え自体は東洋医学だけのものでもありません。

西洋医学でも、血圧、血糖、生活習慣などに早い段階から介入し、将来の臓器障害や合併症のリスクを下げようとします。

ですから、

気 → 形

という一方向だけで考えるより、

働きや調節の変化が、長い時間をかけて構造へ影響することもある。

逆に、構造の変化が、さらに身体の働きへ影響することもある。

つまり、

気 ⇄ 形

と考えた方が、実際の身体には近いのではないかと思います。

病名そのものを「形か気か」で分けると無理が出る

ここまで考えると、

「癌は形の病か」

「アトピーは気の病か」

「糖尿病はどちらか」

と、病名単位で二つに分けること自体に無理があると分かります。

同じ病気の中にも、形と気の両方があります。

そこで私は、視点を少し変えることにしました。

病状が大きく動いている最中ではなく、

病状がいったん落ち着いたときに、何がなお問題として残っているのか

を見るのです。

病状が落ち着いたあと、何が残っているのか

病状が落ち着いたあとにも、

骨が変形している。
関節が破壊されている。
腫瘍が残っている。
臓器が欠損している。
結石が残っている。

こうしたものは、

構造や組織そのものに、比較的固定した異常が残っている

と言えます。

私はこれを、「形」の側として考えます。

一方で、

病変そのものは落ち着いている。

検査でも大きな異常はない。

しかし、

眠れない。
食べられない。
身体が重い。
冷える。
動悸がする。
以前の状態へ戻り切らない。

このような場合には、

構成要素そのものよりも、働き、関係、調節、全体状態の問題が前景に出ている

と考えることができます。

私はこれを「気」の側として考えます。

この見方であれば、かなり多くの臨床状態を整理できます。

ただし大切なのは、

同じ患者さんの中に、形と気の両方があってよい

ということです。

それでも例外はあります

この分け方にも、まだ例外があります。

たとえば不整脈です。

心臓の構造そのものに大きな異常がなくても、電気活動のリズムや伝導の問題で症状が起こる場合があります。

これは「働き」の問題なので、私の分類では「気」の側に見えます。

しかし西洋医学は、こうした電気的な異常を検査し、治療することができます。

糖尿病も、血糖調節やインスリン作用という「働き」を西洋医学が扱います。

甲状腺疾患ではホルモンという全身調節を扱います。

てんかんでは脳の電気的活動を扱います。

精神疾患にも、薬物療法や心理療法など西洋医学を中心とした有効な治療があります。

ここから分かるのは、

「気の病だから東洋医学が得意」と単純には言えない

ということです。

これは非常に重要な反論でした。

「全部、物質ではないのか」という反論

さらに強い反論があります。

現代科学の側から見れば、

「免疫も神経もホルモンも物質的な基盤を持っている。ならば全部、形ではないのか」

と言うこともできます。

もっともな指摘です。

もし、

形=物質
気=非物質

としてしまえば、この考え方は成り立ちません。

ですから、私がここで考えている形と気の違いは、

物質か、非物質か

ではありません。

形とは、

異常そのものを、比較的固定した対象として切り出しやすいもの。

気とは、

異常が、働き、関係、調節、時間的変化として現れているもの。

と考えます。

たとえば不整脈で問題になっているのは、単純に「何という物があるか」だけではありません。

興奮の順序、タイミング、伝導、リズムといった、動きや関係も重要になります。

このような現象を考えるとき、私は「気」という見方に意味を感じます。

「形」と「気」は白黒ではない

ここまで来ると、形と気は完全に分けられる二つの箱ではないことが分かります。

ある病態では、形の側面が強く前に出る。

別の病態では、働きや関係の側面が強く前に出る。

そして時間が経てば、その割合も変化します。

ですから私は、

形と気は、病気を白黒で分類するためのものではなく、病態のどの側面が今前景にあるのかを見るための見取り図

として使うのがよいと考えています。

この意味でなら、

「西洋医学は形の病が得意で、東洋医学は気の病が得意である」

という最初の言葉も、完全に捨てる必要はないと思います。

大づかみに考える入口としては使える。

しかし、厳密な境界線ではありません。

では、東洋医学と西洋医学の役割をどう考えるか

ここで最初の問いに戻ります。

西洋医学は形、東洋医学は気。

これは分かりやすい。

しかし、ここまで見てきたように、西洋医学も働きや調節の問題を扱います。

ですから、実際の臨床で東西医学の役割を説明するなら、私はもう一つの言い方を大切にしています。

それが、

西洋医学で手が届かなかったところに、東洋医学が手を差し伸べる

という考え方です。

ただし、この「手が届かなかった」は、

西洋医学では治せなかった

という意味ではありません。

検査では大きな異常が見つからない。

診断名はついたが、困りごとが残っている。

数値は改善したのに、本人はまだつらい。

病変そのものは落ち着いたのに、身体が戻り切らない。

医療上は大きな問題がなくても、本人には日常生活上の困りごとがある。

複数の症状が、それぞれ別の問題として扱われている。

患者さん自身の体感と、検査結果との間にずれを感じる。

そうしたところを、別の身体の見方からもう一度見てみる。

私はそこに、東洋医学の役割の一つがあると考えています。

もちろん、

東洋医学なら、そこを必ず解決できる

という意味でもありません。

西洋医学を否定する話でもありません。

西洋医学で確認すべきことは、西洋医学に任せる。

必要な検査、診断、薬、手術などは尊重する。

そのうえで、

それでもその人に何かが残っているなら、そこを見る。

私は、そういう立場で東洋医学を使っています。

形を治しても、人は残る

「西洋医学は形の病が得意で、東洋医学は気の病が得意である。」

この考え方は、完全な分類として使おうとすると例外が出ます。

だから私は、これを科学的な病気の分類として使おうとは思いません。

それでも、大づかみな見取り図としては意味があると感じています。

病名を二つに分けるのではなく、

病状が落ち着いたあと、その人に何が残っているのか

を見る。

比較的固定した異常が残っているのか。

それとも、働き、関係、調節、全体状態としての問題が残っているのか。

そうやって「形」と「気」を見る。

そして、実際の臨床ではさらに、

西洋医学でできることは、西洋医学に任せる。

そのうえで、

西洋医学で手が届かなかったところに、東洋医学が手を差し伸べる。

私はそう考えています。

病変そのものが改善しても、患者さんの困りごとがすべてなくなるとは限りません。

形を治しても、人は残る。

これは医学的な定義ではありません。

私自身が臨床を続ける中で、大切にするようになった見方です。

その「残った人」を診る。

そこに、東洋医学が担える一つの役割があるのではないか。

今の私は、そのように考えています。


この記事の執筆者:
馬場 乾竹

大阪府茨木市で鍼灸臨床を続け、2026年で開業20年。伝統鍼灸を基盤に、患者さん一人ひとりの身体の変化を確認しながら、その都度治療判断を更新することを大切にしています。 治療への依存をつくるのではなく、最終的には患者さん自身の身体と生活へ戻っていただくことを治療の目標としています。

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