西洋医学で手が届かなかったとき、鍼灸という選択肢がある

西洋医学で手が届かなかったとき、鍼灸という選択肢がある

│執筆:馬場 乾竹

「病院では異常がないと言われました」

鍼灸院には、そう話される方が来られることがあります。

検査を受けた。
薬も飲んだ。
必要な治療も受けた。

けれども、本人の中には何かが残っている。

痛い。
だるい。
眠れない。
動きにくい。
何となく以前の自分とは違う。

うまく言葉にはできなくても、

「まだ何かおかしい気がする」

という感覚が残っています。

ただ、今回お話ししたいのは、「検査では異常がなかった人」だけのことではありません。

病名がついている人もいます。

治療法も決まっている。

必要な治療も受けている。

検査値も改善している。

それでも、

「まだつらい」

「まだ以前のようには戻っていない」

「何かが残っている」

という人がいます。

私がいう、

「西洋医学で手が届かなかったとき」

とは、そういう状態まで含んでいます。

西洋医学で何もしてもらえなかった、という意味ではありません。

必要な検査や診断、治療を受けた。

それでもなお、患者さん自身の中に困りごとが残っている。

そんなとき、

一つの医療の見方だけで、すべての可能性を閉じる必要はないのではないか。

私はそう考えています。

その人の身体を、もう一つ別の方向から見る。

その選択肢の一つとして、鍼灸があります。

「医学的に問題がない」と「その人に問題がない」は同じではない

ここは、とても大切なところです。

検査で異常が見つからなかった。

医師から、

「大きな問題はありません」

と説明された。

それは、とても重要な情報です。

重大な疾患の可能性が低いと判断する材料になったり、安心につながったりすることがあります。

しかし、

「医学的に大きな問題が確認されていない」と「その人に困りごとがない」は、必ずしも同じではありません。

一方で、もう一つ大切なことがあります。

「その人がつらい」と「医学的な病気が隠れている」も、同じではありません。

本人が違和感を感じている。

だから必ず何か病気がある。

そう断定してよいわけではありません。

私が東洋医学の側から受け止めたいのは、

「あなたには隠れた病気があります」

という話ではなく、

「あなたがまだ困っているという事実」

です。

患者さんの感覚を尊重することと、病態を勝手に断定することは違います。

私は、その人が感じているものを一つの情報として受け止めたいと思っています。

また、一度「異常なし」と言われていても、新しい症状が出た、急に悪化した、状態が明らかに変わったという場合には、改めて医療機関での評価が必要になることがあります。

東洋医学には「受け皿」になれる場面がある

「検査では大きな異常がありませんでした」

「でも、まだつらいんです」

そういう方が来られたとき、

私は、

「異常がないのだから大丈夫です」

だけで話を終わらせたくありません。

反対に、

「西洋医学では分からない。本当の原因は私には分かります」

とも言いたくありません。

私はまず、

「その上でこちらへ来られたということは、何かお悩みがあるのですね。何にお悩みですか?」

と聞きます。

病名だけから始めるのではなく、

患者さんが今、何に困っているのか。

そこからもう一度始めます。

私は、東洋医学には、そうしたものを受け止める受け皿になれる場面があると思っています。

必要な医療を受けた。

それでも本人は困っている。

その「まだ残っているもの」を、いったん受け止める。

そして別の身体の見方から考えていく。

それも鍼灸の役割の一つだと考えています。

西洋医学と鍼灸は「尺度」と「見る方向」が違う

私は、西洋医学と鍼灸を対立するものとは考えていません。

どちらが優れている、どちらが劣っているという話でもありません。

また、現代医療でも、痛み、機能、生活への影響、患者さん自身の訴えなどは重要な評価対象です。

そのうえで私は、西洋医学と東洋医学では、身体を見るときの尺度や方向に違いがあると考えています。

現代医療では、症状や身体所見に加えて、画像、血液検査、病理検査など、さまざまな方法を用いて病態を捉え、必要な治療につなげます。

非常に強力な方法です。

だからこそ、発見できる病気があり、必要な治療につなげられる状態があります。

一方、私の鍼灸臨床では、

脈。
腹。
動き。
呼吸。
表情。
言葉。
睡眠。
食欲。
身体の左右差。
施術を加えたあとの変化。

そうしたものを組み合わせながら、身体全体を見ていきます。

私がいう尺度の違いとは、

何を手掛かりに身体の状態を捉えるのか。

どの変化を重要な情報として扱うのか。

その違いです。

もう一つが、

見る方向の違いです。

同じ身体を見ていても、

何を中心に見るのか。

どこから関係を見るのか。

どの変化を追うのか。

その方向が違います。

だから、同じ人を見ても、西洋医学的な評価と鍼灸での見立てが完全には一致しないことがあります。

それは直ちに、どちらかが間違っているという意味ではありません。

異なる尺度と異なる方向から、同じ身体を見ている。

私は、まずそこから考えています。

鍼灸では、直接見えない働きを「象」から考える

東洋医学では、西洋医学とは異なる概念を使って身体を見ます。

その代表的なものの一つが、

気

です。

ここでいう気を、血液検査で測定できるような生物学的物質として扱っているわけではありません。

東洋医学という体系の中で、身体の働きや状態、変化を捉えるために使われてきた概念です。

では、

「直接見えないものを、どうやって考えるのか」

という話になります。

私は、見えないものを直接見ているとは考えていません。

直接見えない働きを、身体に現れているものから読む。

脈にどう現れているか。

腹にどう現れているか。

呼吸にどう現れているか。

動きにどう現れているか。

言葉にどう現れているか。

施術したあと、身体がどう応えたか。

東洋医学では、このような身体に現れているものを「象」として捉えます。

つまり、

見えないものそのものを断定するのではなく、現れている変化から身体の状態を考える。

これが、私が臨床で行っている身体の見方の一つです。

検査値の基準範囲と「その人の変化」は同じものではない

検査では、さまざまな数値や所見を基準と照らして評価します。

それは非常に大切です。

そして現代医療でも、数値だけでなく、患者さんの症状や経過、以前との変化などを合わせて判断します。

そのうえで、

ある検査値が基準範囲に入っていることと、

本人が何の不調も感じていないことは、

必ずしも同じではありません。

反対に、

本人が「以前と違う」と感じているからといって、

それだけで病気があると断定することもできません。

私の鍼灸臨床では、

その人自身がどう変化しているのか

も一つの観察情報として大切にします。

以前はどうだったのか。

今はどうなのか。

施術を加えたあと、どう変わったのか。

そこを見る。

検査を置き換えるためではありません。

検査とは別の情報として、その人の身体の変化を見る。

ということです。

原因が完全に分からなくても、身体の応答から判断を更新する

現代医療では、診断は非常に重要です。

何が起きているのかを調べ、病態に応じて必要な治療を選びます。

もちろん、原因不明の症状について医療機関での評価が必要な場合には、診察や検査を優先すべきです。

これは、

「診断がなくても鍼灸だけで扱えばよい」

という話ではありません。

その前提のうえで、鍼灸では、

原因名を完全に確定できなくても、

観察する。

介入する。

身体の反応を見る。

判断を更新する。

という進み方をすることがあります。

一度、鍼をする。

その一本で身体はどう変わったのか。

良い方向へ動いたと判断できるのか。

動かなかったのか。

別の変化が出たのか。

それを見て、次の判断を変えます。

私がそのとき大きな基準の一つとしているのが、

胃の気

です。

胃の気は、西洋医学の検査値ではありません。

また、血液検査や画像検査を代替するものでもありません。

東洋医学の中で伝えられてきた概念であり、私の臨床では、脈などを通して身体全体の調和した反応をみるための一つの基準として使っています。

介入して終わるのではなく、身体がどう応えたのかを確認し、その応えによって判断を更新していく。

そこに、私の鍼灸臨床の特徴があります。

西洋医学と鍼灸の見立てが一致しないこともある

同じ人を見れば、いつも西洋医学と鍼灸が同じ答えになる。

そんなことはありません。

一致しないこともあります。

たとえば医療機関では、

「医学的には大きな問題は確認されていません」

という評価になる。

一方、私が身体を診ると、

「まだ身体の変化として気になるところがある」

と考えることがあります。

ただ、

一致しないこともある。

私は、それ以上でもそれ以下でもないと思っています。

違うからといって、どちらかを否定しなければならないわけではありません。

医療上、大きな問題が確認されていない。

しかし患者さんには困りごとがある。

そして鍼灸では、別の観察から身体の変化を捉えている。

それらが同時に存在することもあります。

大切なのは、

「どちらが勝っているのか」

ではありません。

今、この人のために何を確認し、どの視点を使う必要があるのか。

そこだと思っています。

鍼灸にも見えないものがある

「西洋医学の尺度だけでは十分に説明できないことがある」

という話をすると、

「では鍼灸なら何でも分かるのか」

という方向へ進むことがあります。

私は、そうは考えていません。

鍼灸にも見えないものがあります。

血液検査でなければ分からないことがあります。

画像検査が必要なことがあります。

病理検査が必要なことがあります。

手術や薬物療法を優先すべき状態があります。

緊急性がある場合もあります。

重大な疾患が疑われる場合もあります。

そうした場合には、医療機関での診察や検査を優先する必要があります。

必要な医療を受ける時期を、鍼灸によって遅らせてはいけません。

私は、そこをきちんと分ける必要があると考えています。

患者さんにも、

伝えるべきことは伝える。

そのうえで、患者さん自身の意思を尊重する。

その関係を大切にしています。

一つの体系ですべてを見ようとすると、医療は閉じる

これは、西洋医学だけの話ではありません。

鍼灸の側にも同じ問題があります。

「西洋医学には分からない」

「東洋医学なら分かる」

そう言って、鍼灸だけを絶対化してしまえば、私はそれも違うと思います。

一つの医学体系ですべてを見ることができる。

そう思った瞬間に、

その体系では見えないものを、最初から存在しないものとして扱ってしまうかもしれません。

だから私は、

「西洋医学だけでは十分に捉えきれない場面がある」

と考えるのであれば、

同時に、

「鍼灸にも捉えきれないものがある」

と言わなければならないと思っています。

陰陽を語るなら、片方を絶対にしてはいけない

私は伝統鍼灸を学び、臨床で陰陽という考え方を使っています。

だからこそ、自分の鍼灸だけを絶対化したくありません。

一方に見えるものがある。

一方からは見えにくいものがある。

こちらが大切な局面もある。

あちらが大切な局面もある。

状況によって関係は変わります。

それなのに、

「西洋医学は駄目だ」

「東洋医学だけが正しい」

と固定してしまったら、

私自身は、それを陰陽的とは考えません。

西洋医学で見るべきときは、西洋医学で見る。

鍼灸から見る意味があるときは、鍼灸から見る。

必要なら両方から見る。

必要なら行き来する。

私は、その方が自分の考える陰陽のあり方に近いと思っています。

鍼灸は「最後の駆け込み寺」だけではない

現実には、鍼灸院が最後の駆け込み寺になることがあります。

病院を何軒も回った。

いろいろな治療を受けた。

それでも困りごとが残った。

そして最後に、

「鍼灸も試してみようか」

と来られる。

そういう方もいます。

その段階でも、状態によっては鍼灸を一つの選択肢として検討できる場合があります。

ですから、最後の相談先になる役割にも意味はあると思っています。

ただ私は、

すべてが行き詰まるまで、鍼灸という選択肢を知らなくてもよいのだろうか

とも思っています。

これは、

「病院へ行く前に鍼灸へ来てください」

という意味ではありません。

また、

「鍼灸は早く受ければ受けるほどよい」

という一般法則を言っているわけでもありません。

必要な検査は受ける。

必要な治療は受ける。

そのうえで、

困りごとが残っているのであれば、早い段階から別の相談先や別の見方も選択肢として知っていてよい。

という意味です。

まだ選べる道が多いうちに、鍼灸という別の視点も持てる。

私は、そのような位置に鍼灸があってもよいと思っています。

西洋医学の代わりではなく、「もう一つの医療選択」

私は、鍼灸を西洋医学の代わりとは考えていません。

症状や状況によっては鍼灸だけで相談を受ける場合もありますし、病院での治療と併用する場合もあります。

大切なのは、

「西洋医学か、鍼灸か」

と最初から二者択一にしないことです。

西洋医学には、西洋医学だからできることがあります。

鍼灸には、鍼灸から身体を見る意味があります。

そして患者さんの困りごとは、一つの方法だけで完結するとは限りません。

だから私は、

鍼灸を、

もう一つの医療選択

として考えています。

最後の手段だけではなく、

必要に応じて検討できる、もう一つの入口です。

「第二の意見」ではなく、「第二の見方」

医療には、

「セカンドオピニオン」

という言葉があります。

一般にセカンドオピニオンとは、現在の診断や治療方針などについて、現在の担当医とは別の医師に意見を求めることです。

ですから、鍼灸を医学的な意味でのセカンドオピニオンと呼ぶのは正確ではありません。

ただ私は、患者さんが自分の身体をもう一度考えるという意味では、少し似た発想があると感じています。

同じ病気について、別の医師から意見を聞く。

それがセカンドオピニオンです。

一方、私がここで言いたいのは、

同じ身体を、違う医療体系からもう一度見てみる。

ということです。

だから、

第二の意見ではなく、第二の見方。

という表現が、私にはしっくりきます。

一つの尺度だけでは十分に整理できなかった。

ならば、違う尺度からも考えてみる。

一つの方向だけでは捉えきれなかった。

ならば、違う方向からも身体を見てみる。

そのことで、新しく考えられることが出てくるかもしれません。

病名が残っていても、生活上の状態は変わることがある

「良くなる」とは何でしょうか。

病名が消えることだけでしょうか。

私は、それだけではないと思っています。

病気そのものは残っていても、

眠れるようになる。

食べられるようになる。

動けることが増える。

仕事や日常生活に戻れる。

痛みとの付き合い方が変わる。

できることが増える。

そのように、生活上の状態や困りごとが変わることがあります。

もちろん、

鍼灸を受ければこうした変化が必ず起きる、という意味ではありません。

また、病気そのものを軽視してよいわけでもありません。

必要な医学的管理は続ける。

必要な検査も受ける。

そのうえで、

病気だけを見るのではなく、病気を抱えて生活している人を見る。

そこにも、鍼灸が関われる余地があると私は考えています。

最後に戻るのは、患者さんです

結局のところ、

私はとても単純なところへ戻ってきます。

「検査では大きな異常がありませんでした」

「必要な治療は受けました」

「でも、まだつらいんです」

そう言って来られた方がいたとします。

そのとき、

「医学的に問題がないのだから、あなたには何もありません」

とは言わない。

反対に、

「西洋医学では分からない。本当の原因は私には分かります」

とも言わない。

ただ、

「その上でこちらへ来られたということは、何かお悩みがあるのですね。何にお悩みですか?」

と聞く。

そこから始めます。

西洋医学で確認すべきものは、西洋医学で確認する。

鍼灸では、鍼灸の観察から身体を見る。

必要なら両方から見る。

必要なら行き来する。

西洋医学を守るためでもありません。

鍼灸を守るためでもありません。

患者さんにまだ困りごとが残っているなら、別の入口まで閉ざさない。

そのための話です。

西洋医学で答えが出なかったからといって、

患者さんの困りごとまで消えるわけではありません。

一つの尺度だけでは十分に整理できなかったものを、

別の尺度から考えてみる。

一つの方向だけでは捉えきれなかったものを、

別の方向からも見てみる。

そのための、

第二の見方。

そのための、

もう一つの医療選択。

それが、

私にとっての鍼灸です。

西洋医学で手が届かなかったとき、鍼灸という選択肢があります。


この記事の執筆者:
馬場 乾竹

大阪府茨木市で鍼灸臨床を続け、2026年で開業20年。伝統鍼灸を基盤に、患者さん一人ひとりの身体の変化を確認しながら、その都度治療判断を更新することを大切にしています。 治療への依存をつくるのではなく、最終的には患者さん自身の身体と生活へ戻っていただくことを治療の目標としています。

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